金枝篇とか

そろそろ月一くらいで更新します。 昔よんだ、誰もよまなそうな本の書評とか。

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『捏造された聖書』から見えるキリスト教の事情。

 『捏造された聖書』。内容は聖書の本文批評。キリスト教の編纂史。聖書が創作され、改修・編纂された歴史を綴ったもの。聖書を「一字一句たりとも誤りの無い神の奇跡」と考える人にとっては不謹慎な本ですが。キリスト教の聖書の成立過程を書いた本として、大変興味深い本です。特に、近年話題となった「ユダの福音書」などがどういった経緯で存在したのか、あるいは初期キリスト教の成立過程はどのようなものだったかを感じる大きな手がかりとなるでしょう。それに中世以前のヨーロッパや地中海周辺世界に興味がある人ならば、その世界を知る手がかりになるでしょう。高校で世界史を真面目に学んだ人ならば、後のイスラム教に影響を与えたであろう事に思い至り想像が膨らむかもしれません。
 粗筋を知りたければ、捏造された聖書の書評をググればだいたいわかります。

 そして、この本の面白さはもう一点、はじめに(前書き)と終章にあります。
普通の学生だった著者が、学内キリスト教青年会の活動を通して『本物の「再生」を体験』『私にとって全く新しい、わくわくする体験』をし、『自分こそが「真の」キリスト教徒であると考える』と考るようになります。恐らくこの時、何らかの神秘体験を経験したのでしょう。
 そして聖書を「精霊の霊感によってもたらされた」「無謬なる神の御言葉」とみなし、学んでいくのですが、聖書を学ぶことにより聖書に対する純粋な盲信が揺らぎ、聖書は時代時代で誤字脱字が含まれまた内容が変更(改竄)されたもの、決して完璧ではないものと受け入れていきます。
 最初改変に対して腹を立てていた著者が、次第にその編纂・改変の歴史を受け入れていく心境の変化は、キリスト教徒(あるいは創唱宗教の純粋な信者)ならざる多くの日本人にとって本文の内容と並んで、大変面白いはなしです。

 私はこの著者の心境の変化過程を読んだときに、不思議と勧善懲悪的な爽快さを感じました。そして恐らくここで何を感じるかは、読者個々人が、キリスト教や聖書をどう思っているのか、何を期待しているのかに関係しているのでしょう。


捏造された聖書捏造された聖書
バート・D. アーマン
(柏書房 2006/05)
ISBN : 4-7601-2942-1
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2009/8/1一部改定
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

神秘体験の体験レポート、『洗脳体験』の新装版が発売されていました。

自己開発セミナーの体験記である 『洗脳体験』(二澤雅喜・島田裕巳 著)の新装版が、宝島文庫として発売されました。

新装版 洗脳体験 (宝島SUGOI文庫)新装版 洗脳体験 (宝島SUGOI文庫)
(2009/07/04)
二澤 雅喜島田 裕巳

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この本は、著者である二澤 雅喜氏の潜入体験記及び元トレーナーへのインタビュー、宗教学者である島田 裕巳氏による宗教学的立場からの解説がかかれています。この本事態は大変読みやすく、特に二澤 雅喜氏のパートは、自己開発セミナーや新宗教における神秘体験がどのようなものなのかがわかる非常に貴重な体験談です。

私が特に面白いと感じたのは、元セミナー講師のインタビューで、セミナー体験自体は非常に強烈な体験なのですが、元セミナー講師のインタビューからは、その体験は非常に単純な仕組み・方法によって引き起こされる事が読み取れます。

―そのような解釈や価値観の置き換えについて、もう少し詳しく説明していただけますか。
 この効果を一言でいえば、「ブレインウォッシング」ということになります。この言葉は直訳すると「洗脳」になり、誤解を招きやすいのですが、人をある閉鎖された場所において刺激を加え、ある価値観だけを与えて、その理由を言わない、という方法によって、人は簡単に「変わり」ます。自分が頼ってきた意味を否定されると、別の意味にすがろうとするわけです。「理由は言わない」というのが重要なポイントで、(以下略)


これなどは、一度、自己開発セミナー(あるいは、同じ手法を使用した、企業のセミナー)を体験した事があるならば、よくわかるのではないでしょうか。自己開発セミナーで感じる特別な体験は、本来人間が当たり前に持っている機能なのではないかと思えます。

そしてこのようなセミナーの手法は、新興宗教や企業内の社員向け講習に使われていることもわかります。そのような体験を受ける意図のほとんどが、この体験がありふれた機能であることを知らないでしょう。それが体験内容(体験による意味づけ)や体験を提供する団体の過剰評価、あるいは体験や体験を提供する団体を否定できなくなる事につながるかもしれませんね。


いや、じつは僕にとってそんな事はあまり気にしていなくて。
最近、初期キリスト教やマルコの福音書に関してつらつらと考えていたときに、この本を思い出したんですよ。

 ・自分が頼ってきた意味を否定せざるを得なくなった人達に
 ・閉鎖された場所(カタコンベなど?)に閉じ込めて刺激を加え、
 ・ある価値観(福音書の記述?)だけを与えて、その理由を言わない

なんとなく、「聖霊の導き・新生って、この体験なのかなぁ・・・」、って、ふと思いました。それだけです。

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ローマ人にとっての『神々』について

以下、塩野七生の『ローマ人の物語ⅩⅠ 終わりの始まり』を読んでないとよくわからないし、読んでてもよくわからないと思う。内容も保証しませんのであしからず。



『ローマ人の物語ⅩⅠ 終わりの始まり』を読んで、ローマの神々とキリスト教に関する記述が少し気持ち悪かった。

ローマ人(あるいはギリシャ人)にとって、人間の感情や心の変化は、人間の内側から湧き出るものではなく、外側からの力、神々の影響によって変わるものだった。そういうルールになってたと思う。たとえば自分の感情が変わるとき、受動態で表現された。たとえば、「変わる」ではなくて「変えられる」、神様によって変えられるというように書かれたと思う。愛だの恋だのは神様の影響だし、儀式上で酒を飲んで精神状態が変わる事が神と一体化することを意味した(ようなことが金枝篇にも書かれています)。

数多くの神々の中にいる、さまざまな神を受け入れることで、人々を受け入れると同時に文化を受け入れ、精神を受け入れる。さまざまな神がいることが、古代ローマ人の精神の自由だった。
だから "宗教"(religion)の語源が「再び結びつける」という意味の "religio" であり、"religio" が神と人を再び結びつけることと理解されたんでしょう。(Wikipedia参照。Wikipediaから、さらに参照できます。)

この、「神とは人間の精神に影響を与えるもの」って感覚が、日本人(少なくとも僕)にはない感覚で、だけどこの感覚がないと、ローマの神とかキリスト教の愛とか悪魔とかが理解できないと思う。まあ、どうでもいいか。

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金枝篇関連の目次

初版金枝篇に関する、このブログ内の記事の目次です。

初版金枝篇まとめ
含みを持たされた部分を考えてみる - 初版金枝篇まとめ①
ネミの森の風習について - 初版金枝篇まとめ②
『森の王』について - 初版金枝篇まとめ③
王とタブーについて - 初版金枝篇まとめ④
神殺し - 初版金枝篇まとめ⑤
金枝 - 初版金枝篇まとめ⑥

初版金枝篇 レジュメ…というほどのものでもないですが。(未完)
第一章 森の王
第一節 アリキアの木立
第二節 太古の人間と超自然なるもの
第三節 人の姿を取った神々
第四節 樹木崇拝
第五節 古代の樹木崇拝
第二章 魂の危機
第一節 王と司祭のタブー
第二節 魂の本質
第三節 王と司祭のタブー
第三章 神殺し
第一節 聖なる王を殺すこと
第二節 樹木霊を殺すこと
第三節 死神を追放すること
第四節 アドニス
第五節 アッティス
第六節 オシリス
第七節 ディオニュソス
第八節 デメテルとプロセルピナ
以下未完

その他金枝篇がらみの雑学
金枝篇を読む前に知っておくといいかもしれないキリスト教の知識
ネミ湖とネミの森の場所
Wikipedia英語版の金枝篇三分の二くらい訳してみたんだけどさ・・・



  

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金枝 - 初版金枝篇まとめ⑥

 これで最後、『第四章 金枝』です。

金枝篇では最初に、「ミネの祭司職を生み出した動機を探る」ことを宣言し、フレイザーは答えなければならない問いとして二つの問いを提示しました。
ひとつめは、「祭司が前任者を殺したのはなぜか」
ふたつめは、「殺す前に黄金の枝を折り取ったのはなぜか」

一つ目は、四章冒頭の段階で「答えは出た。」と断言しています。前任者を殺した理由は、
 1.ネミの森の司祭は、森の霊・植物一般の霊を具現した存在。森や花や畑はネミの司祭の健康に連動する。彼が病気や老齢で死ねば、同時に植物界も死に絶えると考えられた。
 2.したがって、人間の姿をとった森の神は、まだ男盛りの神であるうちに殺され、聖なる命を後継者に移し、常に若さを更新し続けなければならない。このことで植物の生命力が滅び去ることなく継承される、安心と保障になるため、だそうです。

 第四章は、二つ目、金枝について探求しています。まずは「天と地の間であることの意味」を解き、次にバルドル神話を元に「在外の魂」について述べています。


 まず、「天と地の間」であること。以前に引用した天皇などの例を元に、強い力を備えたものが大地に触れたり陽光を浴びると、大地や天に多大な影響を与える、その結果、破滅に追いやる可能性があると考えられていた点を述べています。そして、天と地のいずれでもない場所、その中間に吊り下げておこうとしたとします。続いて蛮人は年頃の女性には超自然の力が備わっているため、大地に触れてはならない、太陽の光に当たってはならないとされたタブーを列挙しています。(月経の血に対し抱いている恐怖、と説明していますが、超自然の力を強調したり、女が太陽によって妊娠すると考えられた事例を述べたり、どちらかというと処女懐胎 の説明に見えましたが。)

 次に火祭りを元にバルドルの神話を説明しています。
 バルドルの神話は、『スカンジナビアの神、バルドルは、他のいかなるものでも傷をつけることができなかったが、ヤドリギだけは傷つけることができた。神ロキの策謀により、ヤドリギを投げられバルドルは殺された。死体は船に乗せ篝火で焼かれた。』というものだそうです。
 フレイザーによると、これはケルト人・ドイツ人・スカンジナビア人などアーリア人に伝わる儀式が生んだ神話、バルドルは儀式的神話だそうです。儀礼的神話とは、実際に行われた宗教的儀式に基づく神話で、その儀式を説明しようとするもの。儀式に関する説明の神話は、儀式過去の処理方法(神々や人間の活躍)を記念するものと説明されるそうです。先に儀式があって、そこから神話が生まれることです。 フレイザーはこの元となる儀礼を、アーリア人のオーク崇拝による儀礼とします。
 ヨーロッパ一帯には、キリスト教が広がる以前から篝火を焚き、その周りで踊り、篝火を飛び越える、主に夏至に行われる風習があったそうです。これらは人間や動物や植物に太陽の光が程よく当たるようにいのる陽光呪術、儀式は太陽を輝かせ穀物を生長させる呪術だったそうです、燃える車輪を転がす、燃えるタールの樽を柱にかけ巡回する、木の円盤に火をつけて飛ばす、など、太陽の模倣行為が行われました。
 像や人間型の藁人形、ヤナギ細工武装した巨人や生きた人間が焼かれたと考えられる事例があり、植物神である死神の追放で焼かれる死神との類似点が多数あるそうです。また、篝火の中からとった燃木を持ち帰ったり、灰を畑に撒くと豊作になる、火を飛び越えると多産になるなど、ご利益が樹木霊の属性です。
 これらで燃やされた木はオーク(ブナ科コナラ属の総称だそうです)で、オークによって火を熾し、オークを焼いたそうです。また、オークに生えるヤドリギは特に神聖なものとしたそうです。オークは、アーリヤ民族にとって神聖な木だったそうです。そしてバルドルはオークの神で、ヤドリギはバルドルの生命の中枢。オークが葉を落としてもヤドリギは緑の葉をつけている。ヤドリギが無傷でいる限り、オーク(バルドル)は傷つかない、が切られ投げつけられるとバルドルが死ぬ、と考えられたそうです。
 ヤドリギは、オークの外部に存在する生命だったそうです。

 あるものの生命がその外部に存在するというのは世界中に存在する話で、魂は箱の中など外部に保存する事ができ、魂が無傷でいる限り人間は安全だとする民話は世界中に存在するそうです。魂を外部に隠した魔術師や鬼の魂を見つけ壊すと、魔術師や鬼が死ぬような話、あるいは首に自分の魂の入った黄金の首飾りを巻いて生まれ、首飾りをはずすと死ぬといわれるインドの王女の話など、数多くあります。
 また、自分の生命が特定の樹木や植物と連動しているという考えは世界各地の習俗の中にも見られ、通過儀礼を行うことでトーテミズムによる魂の交換、死と復活・再生、過去の清算を行うような事例があるそうです(って、これは洗礼の説明じゃぁないんですかね…。魂を動物や植物などの外的な存在に永続的に預けておくことが可能だとする信仰があるそうです。ちなみにトーテミズムやその種の制度が未然に防ごうとする特別な危険は、制的に成熟するまでは起こらないもの、男女の性的関係に伴うもの、だそうです。)

 話を戻すと。金枝とはオークの魂だった。オークは天でも地でもない中間的で安全とされる場所に、ヤドリギとして自分の魂を置いた。バルドルとはオーク(の神)であり、自分の魂を折り取られぶつけられたために死んだ、といえるそうです。
 バルドルの例より、「森の王」は金枝の生えている木の化身であり、オークならば、オークの霊の化身といえる、金枝を取られることは魂をとられることである、と。
 フレイザーは、「森の王」は、かつて、夏の火祭りで焼かれたのではないかとも推測しています。
 太陽は、オークの炎から定期的に力を補充、太陽の炎がヤドリギから発散されたものではないか、金枝とは太陽の黄金色の炎であり、そのためウィルビリウスが太陽と混同された、と。

 結論、は、下巻の470ページに以下のように記載されていますとても簡潔です。むしろ結論の後の十行のほうが意味深です。
 『ローマ帝国の時代、および我々の時代の初期に至るまで、アーリア人による原始的な崇拝は、ガリアやプロイセンやスカンディナヴィアのオークの森においてと同じように、ネミの聖なる木立において、本来の姿をほちょんど留めたままで生き続けた。そして、「森の王」はアーリア人の至上の神の化身として生き、死に、その命はヤドリギ、すなわち「金枝」に宿るのであった。』

 最後の10行には、今でもネミの森は存在し、ディアナの神殿や森の王に変わって教会の鐘の音が響き渡っている、てような内容が書かれています。ちなみに初版の最後は「王は死んだ、王に栄えあれ」と宗教色の薄い締めくくりですが、簡約版では "Ave Maria!" (天使祝詞・アベマリア・聖母マリアの祈り)と、露骨にキリスト教で結んでいます。
(2006/7/21 補足: 「王は死んだ、王に栄えあれ! (Le Roi Est Mort, Vive Le Roi!) (The King is dead. Long live the King!)」は、イギリスで王位継承の際に宣言される言葉だそうです。ネミの森の王は死に、王位は引き継がれた、と。)


 最後に補講として、「初収穫の奉納」という講があります。当初聖餐として扱われていた初物が、神への奉納物という特別なものとして扱われた事例を記述し、初版金枝篇を終えています。



金枝篇を読む前に知っておくといいかもしれないキリスト教の知識
含みを持たされた部分を考えてみる - 初版金枝篇まとめ①
ネミの森の風習について - 初版金枝篇まとめ②
『森の王』について - 初版金枝篇まとめ③
王とタブーについて - 初版金枝篇まとめ④
神殺し - 初版金枝篇まとめ⑤


おしまい。あーつかれた。もっと楽かと思ったら、手間がかかる割にはまとめづらかった。

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