金枝篇とか

そろそろ月一くらいで更新します。 昔よんだ、誰もよまなそうな本の書評とか。

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王とタブーについて - 初版金枝篇まとめ④

金枝篇を読む前に知っておくといいかもしれないキリスト教の知識
含みを持たされた部分を考えてみる - 初版金枝篇まとめ①
ネミの森の風習について - 初版金枝篇まとめ②
『森の王』について - 初版金枝篇まとめ③

続いて『第二章 魂の危機』です。

 第一章では、王は神の化身ってことになっていましたが、第二章では、神の化身・あるいは世界と連動した存在である王様の境遇を、魂に関する考え方とあわせて考察しています。

 まず、蛮人の考えでは、王様はどのように扱われたか。
 王は神、と考えられていた場合、例えば自然の成り行きは王が管理しているとされます。もし悪天候とか不作とかの災害が起こると、それは王の怠惰や罪とされ、王は鞭打ち・縛め・廃位・あるいは死刑にされたりしたそうです。
 また、災禍が王の意志とは無関係だと考えられていた場合、王は自然の秩序や世界の存在と連動していて、王のわずかな歪みで均衡が崩れると思われていました。王の振る舞いによって自然の秩序が乱れ転覆されるかもしれず、王の歪みは、自然・世界の振動になる、そして王の死は自然界の激動を引き起こすと考えられました。このように世界と連動した王様は、 変な振る舞いをさせない、歪ませない、死なないようにする必要があり、そのために儀礼、禁止と戒律で取り囲み、自然の調和を乱したり王・人々・宇宙を破局に陥れる振る舞いを、王・人々・宇宙から遠ざけます。そのため王はあらゆる行動を束縛され、自由を抹消されていたそうです。

 ちなみに、上記のように王になってもろくなことがないので、王になることを拒む事例も多く、空位となったり、無理やりつかせたする事例も多いようです。あるいは王になっても、儀礼、禁止と戒律に取り囲まれて生気のない人間・隠遁者となってしまう。このため権力は別の者に移り、政治権力と宗教の分離が興った、とフレイザーは述べています。

タブー・掟について
 一般的な規則が特定の状況下で特殊な強さを帯びたものを、特に『タブー』といい、王は様々なタブーに取り囲まれた人物になります。
 未開人の見解では、タブーや掟はその地で自らが生きながらえるために守らねばらならない一般原則です。特に人間神の場合、破った場合には高位からの追放・罰則・死が待ち受けており、これらによってタブーを守らされます。人間神は死か廃位で開放されるまで、タブーに絡めとられることになります。(現代の(ヨーロッパの)農家に引き継がれているそうです。)

 次に、儀礼・禁止・戒律・あるいはタブーによって、王の何を守っていたのか。フレイザーは、蛮人にとって守らねばならないものは、『魂』であるとします。

 蛮人は、魂が体の中に存在すると信じていています。魂は人の体の中に入っており、鼻や口から抜けることがあるそうです。睡眠中は魂が一時的に抜けている状態で、もし永続的に魂が抜けると死んでしまうと考えます。魂を操作することにより人を殺すことができ、例えば魔術師・妖術師は魂を操作し、魂を人為的に肉体に帰れなくすることにより相手を殺せると考えている人々もいます。また、鏡像・影・肖像画・写真は魂ないし魂に類するものであり、人を操作できると考えられたそうです。
 このため、蛮人は、魂を操作することができる呪術と妖術を最も恐れ、呪術・妖術から守るための儀式もいろいろ行われたそうです。たとえば異邦人・旅行者が来ると儀式を行い、破壊的霊気を取り払う、汚染された霊気を取り払う儀式を行う事例があります。住民を守るために、異邦人が来ると儀式を行ったり、住民が旅行から戻ると清めの儀式を行ったりしたそうです。

 この、人の命を左右する魂についての原始的な考え方・魂の危機は、王にも当てはまると考えられ、実際、個々人の規則と王のタブーのいくつかは一致したそうです。初期の王の生命は厳格な掟によって管理され、掟によって王の生命は守られていました。
 同種の危機から王を守るために特別な禁止事項があり、例えば王は特定の物に触れたり見てはいけない、飲食時を見られてはいけない、生涯宮殿を出てはいけない、などの禁止がありました。

 また、蛮人の精神においては、神聖と穢れの概念は分化していない、どちらも霊的・超自然的に強い力であり、危機的な状況と考えられました。例えば神聖・穢れ・産褥は同じように扱われる、あるいは死体に触れた穢れの際のタブーと酋長に関して守られているタブーは同じものだった、などの事例・記録がありました。 王は祝福の源であると同時に危険の源でもあり、王が周りに害を及ぼす力を与えることがあると考えられていました。

また、魂やタブーに関しては、他にもいろいろ記載されています
・魂は血の中に宿る(血を地に流すことの禁止は酋長や王に厳しく適用される)
・フラメン・ディアリスは葡萄の木の下を歩いてはいけない(葡萄の果汁は葡萄の血液、葡萄の木の魂:異常な精神状態-憑依もしくは霊感:ブドウ酒 赤い果汁-血液 酔わせる-霊感を与える:ブドウ酒を飲む=動物の血を飲む)
・自分の頭に触られること、頭の上に誰かがいることを無礼とみなす。頭が神聖。
・頭が神聖:髪を切ることも注意(頭の霊を侵害、髪の処理(頭との共感的なつながり)などなど。
・食物に関するタブー(フラメン・ディアリスは特定の食物を食べるだけでなく、名指すことも禁止、など )
などなどなどなど。


そして2章の最後には、早くもこの論文の結論らしきものが記載されています。

古代人の論理性 について
 この古代人・蛮人の考え方は、現代の基準では倫理観を欠いているように見えるかもしれませんが、魂が人間の内部に存在するという前提からスタートした、辻褄の合う実用的な、完璧で調和の取れた体系、王・司祭の生活は古代の英知の一切が要約されている、完璧な生活様式、だそうです。
 未開社会内での論理的整合性を備えている、ただ、前提条件としている、生命の本質に関する概念が間違っている、としています。

・結局のところ、我々の蛮人と類似点は、相違点よりもはるかに多いのだ。
・現在、民族が持っている概念は独創的・直感的なものではなく、蛮人の時代から、経験によって獲得し、代々の継承によって伝えてくれたもの
・先祖の誤りは単に仮説であったこと。検証を続け、誤りを排除して真実が導きだされる。
・われわれが真実と呼ぶものは、最も効果的に機能することの判明した、ひとつの仮説に過ぎないのである。
・われわれより野蛮な時代と民族の、意見や慣習を検討する際には、彼らの誤りを、真実の探求の途上では避けがたかった躓きとして、寛大に見据えるのがよい。そしてわれわれもまた、いつの日か自らに必要となるであろう寛大さという恩恵を、今は彼らに与えておくのがよいのである。
(P276-277から)

 俺らにもおそらく間違いがあるんだよ、今、自分たちが正しいと思っていることも未来の人々から見たらお笑い種にすぎないんだよ、覚悟しろ!ってことなかな。キリスト教徒への挑戦か、自分の間違いへの予防線か。フレイザーは後に文化進化主義などと批判されていますが、フレイザーは進化主義によって、今まで別々に考えられていた西欧と古代と他の地域の人々を、同じ土俵の上に乗せてみせたんですよね。進化主義を利用して、ギリシャ・ローマ(あるいはキリスト教)というヨーロッパの基層とされる枠組みを外そうと試みた。後に続く世代によって、おそらくそれは成功した。すごいおっさんです。

つづく
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